2020-06-03 第201回国会 参議院 国際経済・外交に関する調査会 第4号
これ、この後、ちょっと今、次がなくてちょっと雌伏の状態でありますけれども。私は、こういう造船所が日本にあるということですね。 それから、C社、これ九州の方ですけれども、ここは世界最高の生産性と言われております。 ここもやはり潮目を読む社長が昔からずっといたわけであって、これ、やっぱり三十万トンタンカーを造ろうと思って九州行ったんですけれども、結局、石油ショックで受注が全く来ない。
これ、この後、ちょっと今、次がなくてちょっと雌伏の状態でありますけれども。私は、こういう造船所が日本にあるということですね。 それから、C社、これ九州の方ですけれども、ここは世界最高の生産性と言われております。 ここもやはり潮目を読む社長が昔からずっといたわけであって、これ、やっぱり三十万トンタンカーを造ろうと思って九州行ったんですけれども、結局、石油ショックで受注が全く来ない。
だから、雌伏のときは、やっぱり今回の冬が終われば、春になったら何をするかと。日本の消費というか、日本人ってやっぱりムードというのが非常に重要なので、是非、企業や政治のリーダーの皆さんは、感染拡大がある程度終息したらお金を使おうというムードをつくっていただければ、それに勝る消費刺激効果はないんではないのかなというふうに思います。
四年余りの雌伏のときを経験したからこそ、今を大切に、私のモットーである、顔の見える、声の届く、そして徹底的に現場主義で政治活動を続けながら日本の未来に更に貢献してまいりたいと考えております。
今国会では平成の名を冠した最後の予算を今審議しているわけでありますけれども、私は、平成というものを振り返ってみますと、一般的には総じて暗い時代であった、失われた三十年とか、そういうふうに言われているわけでありますけれども、私は、この平成という時代はバブルのうみを出し切って雄飛のときを迎える雌伏の時代であったと考えております。
その後、平成元年六月、先生は神奈川県議会議員を辞職し、民社党の要請で参議院議員選挙に立候補されましたが、惜しくも当選ならず、そこから十年に及ぶ雌伏のときを過ごされることとなりました。この間、先生は民社党女性局長などを歴任し、また、女性の地位向上の問題に熱心に取り組まれ、各国の女性組織と交流するなどして世界にも目を向けるようになられたのであります。
以来、雌伏十五年を経たのです。鳩山総理にとっても、同じく長い長い政権交代までの道のりだったと思います。 私は、三十歳を過ぎたころから、物書きをなりわいとしながら、離婚に悩む人たちや母子家庭を支援するボランティア活動を続けてまいりました。そして、三万人近い人々の話を聞き、社会の安定した経済的基盤、安定した雇用と住まいがどれほど個々の家族にとって重要かを痛感いたしました。
こうして、雌伏三年。政治改革が争点となった、平成五年七月の第四十回総選挙に「責任ある政治、真の政治改革は国民の手で」を旗印に日本新党から立候補、激戦の末、見事トップ当選を果たされました。(拍手) その時、先生は、「僕が代議士になれたのは、女房のおかげです」と公言して憚りませんでした。
まず、総理が圧倒的な国民的人気の絶頂にある中、私は総理の本当の魅力は、総理が雌伏の時代に福田邸にいて故横手征夫君とともに修行をなさっておった、あの本当に苦労された努力が今実っているんじゃないかと思います。そして、総理が掲げるいわゆる現在の構造改革というのは、私がかつて関係いたしました海部内閣のときに日米構造協議というのがございました。
自後、先生にとってはまさに雌伏のときが続いたと言えましょう。しかし捲土重来、昭和四十四年の第三十二回総選挙では、年来の宿願を達成して見事に本院の議席を得られたのであります。(拍手)そして、以来連続して当選すること九回、逝去まで在職二十六年五カ月の長きに及ばれました。
その後、雌伏一年、今度は村山社会党委員長を首班として担ぎまして連立政権をつくることになりました。村山総理の指導のもとで、三党は一致してこの政権を安定した政権とするための努力をいたしております。 例えば防衛費におきます概算要求などにつきましては、防衛庁長官もおられますけれども、非常に厳しい状況の中で、これは従来よりも思い切って抑制した概算要求をするというようなことにいたしました。
(拍手) 君の足跡を顧みるに、時に思わぬ苦杯を喫し、雌伏を余儀なくされた時期がありました。たね子夫人は、捲土重来を期する君とともに、選挙区をくまなく回り、この試練を乗り越えられたのであります。ここに今、君との二人三脚で苦楽をともに歩んでこられた奥様の御心中を察するとき、私はお慰めの言葉を知らず、万感胸の詰まる思いであります。
当面、何とかそれらの企業が変換し得るだけの資金的な余裕を与えつつ、しかしそれが御指摘のようにアメリカ等が恐れている、いずれまた雌伏一年国際市場、特にアメリカ市場に乗り込んでくるといったふうなことだけを時間稼ぎさせる、そういうのでない方向、展望を持たせるようなそういった政策でなければいけない。方向づけは御指摘のとおりだと思うのです。
かくて雌伏四年、君は、再起を期して三十五年の総選挙に自由民主党公認候補として立候補、見事衆議院に返り吹かれて、自来、四十七年の選挙を除いて毎回当選、盤石不動の基礎を固められました。
今日、婦人の社会的進出は目覚ましく、一方、芸術家など、時至らず、雌伏久しくして、志いまだならざる夫もまた少なくないのであります。私は、妻と同じく、夫に対する遺族補償年金の受給資格及び受給開始年齢についての年齢要件は外すべきであることを、改めて強く要望するものであります。
(拍手) しかし、島田さんは、その後行われた三回にわたる総選挙に苦杯を喫し、雌伏すること七年有余、文字どおり臥薪嘗胆の日々を過ごされたのでありますが、さきの総選挙においては、まさに政治生命のすべてをかけて選挙戦に臨み、ついに鳥取県における総選挙史上最高得票のトップ当選で本院への復帰を果たされたのであります。
しかし、昭和二十一年、先生にとっては青天のへきれきともいうべきマッカーサーによる東亜連盟協会解散と公職追放の指令を受け、六年余にわたる雌伏を余儀なくされるに至りました。 昭和二十七年、先生は追放を解除され、政界復帰の夢を果たされたのであります。当時は保守勢力が互いに対立し、権力の座を争っておりました。
この理不尽かつ過酷なる追放のため、私は、涙をのんでこの当選後わずか二カ月の六月に本院議員の職を辞し、自来六年有余の長い間、隠忍雌伏のときを過ごさざるを得なかったのであります。
しかるに、昭和二十二年三月、突如公職追放の指令を受け、三年余にわたり雌伏のやむなきに至りました。 追放解除になった先生は、昭和二十七年の第二十五回総選挙に埼玉県第三区から出馬し、再び本院に復帰され、たちまち頭角をあらわし、昭和二十八年、早くも議院運営委員会理事となり、翌年には建設政務次官に就任するなど、各方面に縦横の活躍をされました。
昭和二十年、終戦を迎え、政党政治の再建がいち早く図られたのでありますが、先生は、公職追放の指令を受け、自来五年にわたり雌伏のやむなきに至りました。 やがて公職追放が解除となり、昭和二十七年十月、第二十五回衆議院議員総選挙が行われるや、自由党から出馬し、最高点をもって当選をされました。
戦後、官界を去られた先生は、雌伏七年、この間中小企業経営の苦悩を身をもって体験されたのであります。 やがて、昭和二十七年講和条約発効後、先生は、先輩、友人の勧めもあって、新生日本の発展に貢献すべく、同年十月に行われた第二十五回衆議院議員総選挙に、自由党公認候補として茨城県第三区から立候補されました。